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ご多用中とは存じますが

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Chapter 01

ご多用中とは存じますが

実際のところは「心」に音符を付けた形成文字であるということは勿論知っているが、心を亡くすと書いて「忙(しい)」という俗説には、僕は概ね賛成の立場である。「忙しい」と考えたり、ましてや声に出すというのは、他の事に関わりたくないという言い訳がましくも聞こえる、まさしく心の死であると僕は考える。「お忙しい中」ではなく「ご多用中」とEメールに書くことにしているくらいだ。

しかし今日は言わせて欲しい。「忙しい」と言わせて欲しい。マジで忙しい。本当に!

弊社も繁忙期に入り、普段は全くしない残業をして——今まで定時までに全ての業務をキッチリ終わらせていたのに!――深夜に帰宅することも増えてきた。本当に忙しいのだ。具体的には、CADで製図をやり直したり、海外企業と電話会議でケンカしたり、仕様変更の交渉をしたりしている。

今日も夕方の六時過ぎ、僕のデスクにはCADソフトが開かれたままで、ミスを修正するための終わりの見えない作業に追われていた。その日は特に疲れていて、昼食もコンビニのサンドイッチ一つで済ませていた。電話が鳴り、画面には取引先の海外企業の名前が表示される。思わずため息をついたが、スマホを取り上げると同時に、心を落ち着かせるよう努めた。

「Hello、こちらは野村です。どうしましたか?」

イラつきを隠しながら定型文を吐き捨てる。電話の向こうから聞こえてくる英語は、聞き慣れたビジネスライクなトーンだったが、その内容は不穏だった。先方の担当者が怒りを抑えた声で、仕様変更についての苦情を並べ立ててくる。数分間の応酬の後、結局何も解決せず、さらに疲労が募るばかりだった。勝手に図面を勘違いして、パーツの製造をミスっているそっちが全面的に悪いとは正直思うのだが。

だが僕は声を大にして言いたい。僕の繁忙期は八月末日までであると!九月からは通常運転に戻れる予定であると!嘘じゃない、嘘じゃないんだ!それなのに今は忙しい。誰か助けて欲しいくらい忙しい。とにかく今日だって本当はこんな駄文を書いている場合ではないんだ。しかし書かねばならない。なぜなら「忙しい」の言葉が脳を埋め尽くしていて、平静を保てないからである。

そして僕が忙しいことで困るのが、彼女である。SheではなくGirlfriendの方だ。彼女は大学時代の後輩でまだ学生だが、それはもうメンタルが弱い。医者の診断があるわけではないが、メンタルが弱い。ペシミストだし、躁鬱らしき様相を見せるときもある。

例えば、ある日曜日のことだが、彼女とカフェで過ごしていると突然彼女が涙を浮かべ始めた。驚いて理由を尋ねると、彼女は小さな声で「将来のことが不安」と呟いた。彼女の不安を和らげるために、僕は「大丈夫だよ、僕がそばにいる」と言って、その。その時、彼女の肩越しに見えたカフェの窓の外には、、彼女の心は晴れないままだった。

そんな彼女のために、僕は「忙しい」と言わないようにしてきた。彼女に心配を掛けないように、言い訳だと思われないように、そして彼女の心の平穏を乱さないように、「忙しい」を封印してきた。しかし、それを破ってでも言わなければならない。僕は彼女に「忙しい」と言わなければならなくなったのだ。今現在、彼女は精神が不安定な状態である。こんな状態で「忙しい」なんて言ったらどんなことになる?考えるだけでも恐ろしい。ああ、どうか彼女が落ち着いてくれますように。僕が落ち着くまで待っていて欲しい。いや、落ち着いてくれなくても良いから、嘘でもいいから平静を装っていて欲しい。頼む、誰か助けてくれ!そう叫びたいが、今現在も本当に忙しい。叫べない。とにかく「忙しい」と書いてしまったので、僕は心から「忙しい」と思っているし、心も死んでいるようなものである。

やはり「忙しい」は悪だ。僕は改めてそう確信した。忙しくても、心の平穏は保たないといけないんだなぁ。

深夜に帰宅すると、猫(ラグドール)が玄関までお出迎えしてくれる。どうやら物音を聞きつけて目が覚めたらしい。暗闇の中、自慢のキャットアイで僕を認識した猫がすり寄ってくるのを撫でてやってから、僕は靴を脱いで部屋着に着替える。そして風呂にゆっくり浸かり、リビングでテレビを見ながらビールを飲むのが僕の日課であるのだが、今日はその時間すら惜しい。シャワーを秒速で浴びてから、缶ビールではなく二リットルボトルの麦茶をグラスいっぱいに注いで、猫の餌を計量するのだった。猫は空腹になると「ニャー」と鳴く。腹が減りすぎると「ウニャー」と鳴く。腹が減りすぎて動けないので、とりあえず鳴いて知らせるのである。僕は最近になってこの事実に気がついたのだが(これまで毎日決まった時間に餌をあげるから)、初めて「ウニャー」を聞いた時は驚いたものだった。

「彼女に連絡しないと。いや、もう寝てるかな。」

猫が餌を平らげたのを見届けて、僕はスマートフォンを手に取る。そして彼女にメッセージを送ることにした。

「ただいま。ようやく帰宅して猫に餌をやったところ。」

僕が彼女にメッセージを送ると、すぐに返信があった。どうやら彼女はまだ起きているらしい。

「おつかれさま!今日は大変だったね。猫ちゃんに『ニャー』って言われるほどお腹空かせちゃったの?」

僕は少し考えてから、こう返信した。

「いや、『ニャー』じゃなくて『ウニャー』だったよ」

すると彼女はこう返してきた。

「え? ウニャーンじゃないの?

ウニャーンじゃなくて、ウニャー。最近は帰宅が不規則で君にも猫にも申し訳ないよ。」

「そうなの?最近忙しそうだもんね。

忙しい、ねぇ。

「え? どうしたの?」

「いや、『忙しい』って、僕はその言葉をあまり使いたくないなと思って。」

「どうして?」

「捻くれすぎかもしれないけど『私は今とても大変であなたに構っている暇などありません。私を放っておいてください。』って意味に聞こえちゃうんだよね。言い訳感っていうか。

「うーん、分からなくもない?」

「でも『ご多用中』だと、他人行儀っぽい。『ご多忙の折』だと『忙』が入ってるし。」

それより早く寝た方がいいよ、明日も朝早いんでしょ?」

「そうだね。また連絡する。けど、あと一件だけ。今日はメンタルどう?」

「え? うーん、

「やっぱりね。電話しても良い?」

「分かった。じゃあ電話するからちょっと待ってて。」

僕は猫を膝に乗せて、彼女に電話をかけることにした。今日こそは、きっと彼女も本当は

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